Saturday, February 7, 2009

先生と学生との間

では、皆さん、目をつぶそう。これから、先生という言葉の連想は?

先生たちの笑顔、優しさ、変なジェスチャー、怒り声、つけられたあだ名のほうはもっと印象的なので、そういうイメージが今描いていると思う。

今は学生の皆さんは、少ししかしゃべれない、少なくとも一ヶ月ぐらい日本にいる知り合いや友達がいるはすだ。初めて日本語を使ったという経験といえば、何を思い出すんだろう。自己紹介、食事の約束、我が国ばなし。一年以上この学校に通学してきた私はこういうことを最近考えさせられた:先生と学生の間には何があるのか?私にとっては、前は少なかったので注目を引いたのが先生の話だ。どのぐらいそういう話を聞いたのか、数え切れないほどで、誰が誰だったかと混乱しているほどだ。それは良いかどうか、人それぞれで、あんなにいっぱい話しを聞いたら、いったいどういうことになるだろう。

我々は、今までいつも自分のことを中心に生きてきた。そして、自分の世界には自分のことが一番で、支えてくれた先生たちを思い出す、内容はおろか、教えた科目の名ぐらいが記憶に残されているかもしれない。

学生時代の友達と懐かしい思い出を話すたびに、戻りたいなあとか、あの私は何を考えていたのと思っている人は、この世の中には数え切れない。その時期は学生をめぐっていろいろな物事が起こったり、あったりした。最新のうわさはいつもの、「サッカー部の人気者」という○○さん、「優秀で優勝」という○○さん、大騒ぎの「カップルになった」という○○さんと○○さんについてだ。その時、皆がそれぞれの国にいたから、言葉を気にしないで自分のことや自分に関わる人たちのことは相変わらず話題にして、頭がいっぱいいっぱいだった。それは、世界には変わらない存在は我々の同級生だからだと私が思っているからです。

今もそうであっても、おかしくないと思う。今も友達のことを中心に私達の日本語があっての世界が回っている。だが、前の自分と今の自分は、何かが違う。いつもの通りに中心だったものの周りには、「今年こそ結婚する」と毎年言っている電車オタク先生、「大学時代には僕の最愛の人がとられた」という逆に愛されている先生、「恋よりラグビー」というケーキ・モンスター先生、「ほぼ毎日カップ・ラーメン定食」という暇人ではない先生、「私の二人の娘はさあ…」と再び語るゴロゴロの先生の話が浮かんできた。

小学校や高校では、言語は呼吸するような当たり前のことだったかもしれない。教育というのは言語によって続けているものだ。それは障害じゃなかったので、昔の私達が自由に、遠慮なく言いたいことや教えたいことや習いたいことなどは触れ合おうとしている人生と自然に調和しているわけだ。しかし、言語は両刃の剣だとおもう。今は、何を言おうと、何を教えようと、何を習おうと、言語と努力が相まって自分なりに進んでいる。学生の私達は先生たちの話ばっかり聞いていると感じるが、それは無意味なことじゃないと思う。文法はどうやって使うかと教えながら、私事にわたる出来事まで教えてあげている。そんなぐらいなら大したものじゃないと思う人がいないとは限らない。でも、先生からすると、
伝えたいことが生徒にと届ける代わりに、心を閉じ込めずに自分のことについて快く教えることができるだろうか。

ここまでの話は先生に同情しようという気持ちをもって書いたつもりじゃない。ただ、言語というのはこういう影響もあると最近気がついたということだ。一つだけ言っておきたいとおもう。日本語の勉強はこれからもの話だ。


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